
由緒ある歴史坂 「首里坂」

私の思い入れのある「首里坂」
観音堂の下からS字形に下りて大道、安里に続く、とても由緒のある歴史坂です。
この坂は琉球王朝時代から人と物流の要の主要道路であり、
琉球王朝時代の首里城と那覇の町を結ぶ、とても重要な道路でした。
1840年に那覇の港から黒船でアメリカのペリーの一団が来航して
この坂を上り首里城へと行き、同じ様に中国からの使者(冊封使)らが、この坂を上り首里城へと行きました。
100年前は、松の木々に 瓦屋根やワラブキ屋根の家が数件の、のどかな地で当時は「大道松原」と呼ばれていました。
① 大正時代の士族の行列の模様でしょうか・・・それにしても眼下の那覇の町に何もありません。
② 首里の師範学校へと続く坂で登下校時には女子生徒と男子学生とが、胸を時めかせ
すれ違うロマンチックな坂道だったという事です。
この「銀バス」も懐かしいですね。後方は那覇新都心方面。
<④ 現在。高い建物が立ち並び眺望は失われましたが、那覇新都心方面はまだ眺望が開けております。天久の軍用地返還による那覇新都心の発展により那覇も一層、活気づいています。
首里生まれ首里育ち現在住の私は、いつもこの坂道をバスで下り那覇の町へと向かいました。
自分にとってこの坂は、今も昔も変わらずに、とても思い入れのある坂道です。
昔は、ちょうどコーナーの正面あたりに特大の映画の絵看板が掲げられ、いつもバスの中から楽しみに眺めていたのを、懐かしく思い出します。
この坂は、かつての琉球王朝時代から
沖縄の玄関口である那覇港から異国の人々を「守礼の心」で迎い入れ、城までお招きする際に必ず通る道でした。
また、沖縄県の心臓部である中心地那覇と、琉球王朝との人の交流と物流の無くてはならない懸け橋(主要道路)でした。
そして、今なお変わらぬ那覇の賑わいと、首里城へと続く主要道路として生き続けるこの由緒ある歴史坂、「首里坂」。
普段、何の変哲もない、このS字カーブに、たまには思いを馳せるのも、またいいものかもしれません・・・
Posted by ハウス太郎 at
◆2014年06月19日10:09
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